戦国の智将「真田昌幸・幸村」父子ゆかりのお寺。

1600年の天下分け目の関ケ原の敗戦後、高野山へ蟄居を命じられた昌幸・幸村父子は、しばらくして、家族との生活を許され、麓の九度山に居を構えます。その屋敷跡に建てられたのが、真田庵です。この地で、名を挙げた大坂冬の陣へ出陣するまでの14年間、幸村の人生で最も長い間過ごしました。残念ながら、父・昌幸は、九度山でその人生を終えています。

真田庵境内には、昌幸のお墓が残されています。当時は、隠棲の身であったため、葬儀をあげることも許されず、もちろんお墓を作ることも許されませんでした。そのため、幸村は、屋敷内にあった松の木の下に父・昌幸を埋葬し、その魂を弔ったとされています。

現在は、真田地主大権現として祀られ、2代目の松の木とともに昌幸のお墓は、幸村・大助の供養塔と一緒に並んでいます。

大坂夏の陣での敗戦後、昌幸・幸村父子の屋敷は、焼き払われてしまいます。126年後、大安上人によって、屋敷跡に真田庵が建立されます。建立にあたり、当時の桃園天皇ゆかりの方のご縁もあり、境内には、真田も六文銭、結び雁金のほか、菊の御紋もあちこちに見られます。

戦時中、天皇家ゆかりのお寺であることを隠すため瓦に刻まれた菊の御紋を白く塗りつぶした名残が残っています。

 

また、真田幸村が雷を封じ込めたとされる井戸があり、必要な時しか開けないということから、

実は少し離れたところにある抜け穴につながっていて、ここを通って真田幸村は大坂冬の陣に出陣したと

される伝説も残っています。

正史では上記のようになっているが、歴史探偵のように詳しく調べてみると夏の陣の敗戦後126年とは1741年の事で天皇は桃ピーチではなく桜チェリー 桜町天皇の世であった。当時寺社建立権限は天皇家ではなく江戸幕府寺社奉行一人の専権事項であった。この寺の建立コンセプトは奈良の法隆寺や島根の出雲大社、京都の天龍寺と同じ怨霊封じの施設なのだ。その理由は1741年が辛酉の年(革命が起こる年と心配される年で改元する)であることが決め手でありその対象者は真田昌幸、幸村:日本における神祭りの下記の公式に合致するからだ。すなわち政治的敗者であること。罪なく殺されたこと。(病死でなく毒殺ではないか6月4日は無死の日)時の権力者はその祟りを鎮めるため自己の政権を安泰にするためその祟りの霊を手厚く祭る。真田地主大権現として、又日の本一の武将とほめたたえることによって......。真実は闇の中だ。

庵内には下記の絵の通り幸村雷封じの井戸がある。真田庵縁起には雷が落ちたので村人を助けるために幸村がこの井戸に雷を封じ込めて村人を救ったとある。ファンタジーな縁起だが、雷とは権力者が怒ることを示唆する時に使われるもので(親父、雷、神と並列する)上(かみ)が怒り昌幸を封じ込めたというのが真実ではないだろうか。つまり上(徳川幕府が怒り昌幸を暗殺した)1611年3月に徳川家康と豊臣秀頼が京都二条城で会見したところ、立派に成長した秀頼に危惧をいだき、その秀頼を補佐する可能性がある豊臣の重臣真田昌幸を1611年6月4日に、加藤清正を6月24日に暗殺した。共に正史では病死となっているが.......。歴史の真実は闇の中だ。その後3年後に大阪冬の陣、4年後に夏の陣 そして豊臣は滅んだ。

この下の絵に見える北門は大正11年〈1922年)脇の土塀と共に建てられたが、昭和51年真田屋敷が和歌山県史跡に認定された時に改修され建てなおされた。この下の画像では真田庵という看板が見えずらいが、平成28年頃鶴べーがTV収録に来た時看板が見えないと放映したため新しく作製架けられているいるが、周りの風景に会わず目をむいたような形になっている。

又右前に見える善名称院の院の文字が地中に埋まっていて作為的な造りをなっているのが興味深い。真田親子の怨霊が地の底から出てくるなという意味だろう。

 

 

真田庵のおみくじ(100円)裏は英語バージョン

牡丹は唐の太宗皇帝が新羅の善徳女王に送った絵で有名だ。独身の女王に虫がつかないと皮肉った。九度山町の花にもなっているが、この牡丹には香りがなく虫が寄り付かない。けど、一匹寄りついている。お兄ちゃんかしら。功なく忠ないと思っていたのは幕府かもね。真田庵のシンボルツリーこの棕櫚(朱牢?)の木は、今はもう伐採されてない。