こちらで さけと子ども を記述
息子の親友のひろきが突然話し出した。
「しゃけはね、3,000以上も卵産むさ」
ひろきとは息子の保育園で知り合い、仲良くなった。
この日はお母さんの仕事の都合で、僕らの家に泊まりにくることになって迎えにいったのだ。小学校二年生になり、お互い学校ははなれたけど、息子どうしの仲良しも、同期の親同士数組の仲良しも続いていた。2001年の秋だった。
彼の家から豊平川を渡ってしばらくしたとき、ひろきはサケの話をはじめる。
「ひろき、サケ好きなの?」
「うん!しゃけってすごいんだよ。4年たったら産まれた川に戻ってくるんだ」
「ひろき、豊平川にも戻ってくるの知っている?」
「え?そうなの?」
僕らの頃もそうだったけど、小学二年の国語の教科書に「さけが大きくなるまで」というのがあって、食べて旨いし、大きいし、なんかかっこ良くて、男の子はみんなさけのこと大好きだったかもしれない。
僕自身、小学生のとき、オレンジの色鉛筆と赤のサインペンで、入念に卵を描いたのを覚えている。サケの産卵シーンの絵で一番思いを込めたのは石の上に産まれる卵を何百も描きぬいたことだった。
「よし!」と僕はその場で決意する。来春は息子とひろきを連れて、豊平川さけ科学館でサケの稚魚の放流をしよう。それから、秋にはサケの腹を割いて受精させる体験をさせよう。
翌年のゴールデンウィークに稚魚の放流は僕が連れて行った。
採卵実習は、ひろきのお母さんが葉書で申し込んで、仕事で行けない僕のを置いて三人で出かけてくれた。二人とも積極的に手を上げて前にでたらしく、一人がメスを抑えて、一人が採卵刀でメスの腹を割く役をやったそうだ。
二人は興奮気味で帰ってきて、嵐のように喋ってくれた。
札幌で生まれそだった楽しみの一つを味わってくれて嬉しかった。
水穂大橋の歩道から、よく晴れた日にサケの産卵行動がみられる。つがいになって、並び、尾鰭で川底を叩き掘る。そして、息子達にこのサケが、なぜ、今豊平川で卵を産んでいるのか、先輩達の努力を伝えた。
マルハニチロのサイトに豊平川のカンバックサーモン運動の顛末がまとめられていて、素晴らしい。学者、企業家、芸術家、自治体職員など札幌の市民、先輩たちが豊平川にサケをもどしてくれた。「さっぽろサケの会」が発足したのは1978年。オリンピックが終わり、下水道も整備され、豊平川の水がきれいになり、僕がサケの絵を描いたのは札幌オリンピックの年、1972年だったかな。テレビの焼酎の宣伝でも流れていたし、いろんな歌も聴いた。そして、サケが還ってきたあとは魚道をつくるなど、川の生物を大事にする運動が市民活動としても、国の政策としても広がった記憶がある。札幌では幾つかの小学校でサケを飼って観察している。
運動の象徴としてこの科学館が産まれた。
札幌市豊平川さけ科学館 - 札幌市公園緑化協会