いったいいくつ穴が有るんだい?「みんなでつくったあ!」 

中島児童会館の図書室で、つい座り込んで蔵書を読んでしまった。清潔で暖かい床暖房。そこに座って館長にお話を伺っていたら、なんとも温泉にでもいったかのように身体があったまる。 近所の子供が楽しそうに遊んだり、本を読んでいる。体育室で卓球をしたり、ピアノを弾いたり。

 昔は、「糸ノコがあるから児童会館にきた」という利用者がいたという。工作の機材の作る空間にはたまらないものがある。塗料の匂いが、筆者の子供のころの工作好きを思い出させた。「ああ、自分の子供、ここに連 れてきてやれば良かった。いや、孫はぜったい連れて来よう」。

 

 近所の奥さん。「海外から来て、小さな子をここで遊ばせることができて助かる。2歳の子が、朝起きると、靴を自分で履いて、ここに行こうと主張とするんですよ」 と嬉しそうに話してくれた。

 

 小学生のお兄ちゃん達が「おじさん誰?こんにちわ」。違和感がありながらもかまってくれる。おもちゃの片付けの素早さに「男の 子なのに片付け上手だね」とあえて言ってみると「なに言ってんだよ、男だって片付けは出来なきゃダメなんだぜ」とたしなめられた。

 図書室には、札幌の本、手塚の漫画、アイヌの本、自然のこと、人のこと、歴史のこと、子供に読んでもらいたい、子供が読みたい本が並んでいた。

 



 目の前は木の沢山植わっている中島公園。地下鉄の駅、由緒あるパークホテル。隣は人形劇専門の劇場、こぐま座がある。

 建物の下を中島公園の池から発し た川が流れている。公園で遊んで「寒い」とか「暑い」とかいいながら、児童会館に入って水を飲んでみたり。歳の差のあ るちょっとお兄ちゃんの遊びに混ぜてもらったり、お兄ちゃんたちは小さい子と遊んだら、一緒にいたお母さんに褒められてみたり。困ったことが無い限り子ど もだけで遊んでいる。

 

 僕は小学生のとき、学校では先生に良い顔をして、家では親に気に入られようとして、少年野球で無理をしていたので、ときどき全てを サボりたくなった。雨 の日、野球をサボって、家にも帰らず、近所の児童会館で、黙々とただ工作をして、なんだかすごくすっきりしたのを覚えている。学校の成績と関係のない「作 品」は親に見せて批評されることもなく、ただ指導員の「先生」がずっと児童会館に飾ってくれていたのが嬉しかった。

 

 子ども同士が揉めて、収集が付かなく なると、指導員のところに来るようだ。指導員はジャッジするのではなく両方の言い分を訊き続ける。そのうちに自分たちで解決するのという。学校でもない、 家庭でもない、本を読んだり、遊んだり身体を動かしたり、人形劇場を見たり、遊びながらゆったり文化に触れる空間がある。札幌市の児童会館は104館。ミ ニ児童会館が79館ある。この児童会館の建設、札幌市は戦後直ぐに取り組んだ歴史があるという。

 

 中島公園パーフェクトガイドには「中島児童会館は 1949年に日本初の公立児童会館として開館しました。地域における児童の交流を目的とした、児童健全育成施設です」とある。この1949年とはどんな年 だったのだろう。1945年9月2日に大日本帝国が降伏の調印をした。その後は米国軍が進駐する。敗戦と不況、何よりも食料の不足で、札幌でも人心は荒れ てたという。盗み等の犯罪が多くあり、治安が悪かったとう記述も残っている。そんな札幌で戦後直ぐに、どんな人たちがこの児童会館を作ったのだろうか。

 
 児童会館そのものの話ではないけれども、「第四集北海道百年物語」(2004,STVラジオ編p63-64)にこの時期の貴重な記述があると教えて頂いた。



当時の札幌市長、高田富輿(たかだとみよ/1892-1976)の生い立ちや人格を記す一節に、1951(昭和26)年の円山動物園誕生の背景が書かれて いる。今はまだ、道路や交通機関が優先で無駄遣いは出来ないという市議会議員達の猛反対に対して、市長は「市民は長かった戦争に疲れ、今また戦後の食料事 情や貧しさに喘いでいる。そんな人たちに心安らげる場所を提供し、夢や希望を持って欲しいとう気持ちの何処が無駄な予算なのだ」と議員達に強く言ったあと 「なあみんな、親はいくら貧しくても、子供にはアメ玉一つでも与えてやりたいものだよ」と語りかけた。議員達は納得し、出来上がった円山動物園には北海道 中から人々が殺到し た という。

 

この塗料の匂いが懐かしい「児童福祉法は1947(昭和22)年にできていて、第40条で児童館を定義してます。児童福祉施設 は 第35条で国は作らなきゃならない、市町村は作ることができるとなってます」と札幌市役所の方に教えていただいた。ということは、札幌市は義務のある国に 先駆けて、この法律を利用していち早く児童会館を造ったことになる。映画や演劇を見たり、自分たちで演じたり、課題ではなく本を読むことを楽しんだりでき る施設に、札幌中から子どもと親たちが集まったという。戦中、戦後を通じて、労働を強いられたり、疎開して家に帰ると親が空襲で死んでしまっていたり。東 京の路上に戦災孤児が溢れて、餓死したり、病死 したりしていたころだ。館長に見せて頂いた当時の起案には、米国軍の使っていた可動式兵舎を「出来るだけ安く」と価格交渉をして譲り受けた経緯なども残っ てい る。それが1948年のことだ。子どもを大切にする政策、子供の将来ことを考えた政策を打ち、子どもの力を借りて、街を立て直していった様子がうかがえ た。

2013.12.20 杉山幹夫


 

クオンセットハットとは蒲鉾型の可動兵舎

札幌市中島児童会館
札幌市 児童会館・ミニ児童会館

札幌の児童会館を運営している公益財団法人さっぽろ青少年女性活動協会