■ 全日本スキー連盟会長 伊藤義郎さんに宮の森ジャンプ競技場でインタビュー


全日本スキー連盟会長 伊藤義郎さん80歳 伊藤組土建会長(札幌本社)、1979年から国際スキー連盟副会長、4度の立候補で招致に成功させた功労者。 「札幌のオリンピックの招致も頑張りましたが、寿命が続いてしまいましてね、今もまだやっています」と穏やかに笑う。 大会を主催する側の伊藤義郎さんは、いつも、選手が跳んでいる間、外でずっと応援しながら見ている。そし て、最後の挨拶は、「寒いのに最後まで見てくれてありがとう」と観客に感謝し、「選手の皆さん、すばらしいジャンプをありがとう」と選手を称え、「大会運 営お疲れ様」と大会役員をねぎらう。

 しかし、2007年1月6日、年明けの雪印杯の挨拶はまったく別の力がこもっていた。「雪印さん、この大会を48回もやってくれてありがとう。一年で一番最初のこの大会は、ノルディック世界選手権の幕開けです」。

  そして、観客に呼びかける。「ここに居る人が、沢山友人を誘って、4万人のドームを埋めましょう。札幌は間違いなく日本のスキーのメッカ ですが、それを世界にお見せしましょう。この立派な街で、ジャンプ台もドームもそろっています。世界から見ても立派な大都市です。一緒に、この街に、世界 中の選手、お客様を迎えましょう。スキーに限ったことではありませんが、札幌が世界に通じる街でありたいと思います」。

 さらに、満面の笑顔で「開会式は、2007年2月22日の午後6時。世界で初めて、ドームスタジアムをスタートし、スプリント正式競技をやります。開会式なんて挨拶だけだとおもっているでしょう。ちがうんですよ。会場を埋めて、応援しましょう 」。

  「札幌冬季オリンピックが終わってすぐに、次は世界選手権をやりたいと思いました。国際的には、オリンピックと世界選手権はセットなんで す」。競技団体と町が一緒でないと立候補できないこと、札幌スキー連盟と札幌市が15年かけて取り組んだ招致活動について丁寧に話してくれた。

  立候補は2年ごと、4回にわたった。「3回目はね、すごい雰囲気がよかったんですよ。でも、ヨーロッパ放送各社が直前のスピーチで、ヨー ロッパを出てもらっては放送ができないと言ってしまった」。それで、投票結果は惨敗。前評判の高かったドイツは、前にもやったことがあるという理由だった のか、0票で、イタリアに決まった。そのとき、ドイツの関係者は激怒して退去してしまったという。それを受けて、「市長と相談してね、今回は、ドイツに協 力しましょうよ。前回の0票にされたドイツの思いと、札幌のこれまでの努力が真っ向から対立しては、選考委員たちも困ってしまいます」と相談し、翌大会の 立候補を見送った。

 最後の戦いも肝を冷やしたそうだ。殆どの委員が札幌を応援してくれていたのに、ふたを開けると、札幌が10票。チェコが7票だった。

  自然に、クロスカントリースキーの話になる。「スケーティングは忙しくて大変ですよ。ずっとこいでいますからね。クラシカルはいいです よ。すーっと前にでて、タイミングがあったときの気持ちよさはすばらしい」。北海道教育大学の附属中学校時代、スキー部に所属して、クロスカントリーの選 手だった伊藤さん。「全道大会といっても小さな集まりでね。先生たちが作り上げてくれました」。大人たちが苦労して大会を運営する姿を見たという。現在も スキーを続けているまっすぐな背中だ。「札幌は魅力的なまちですよ。ヨーロッパにも負けない。 だけど、国際的な街にするには、ひとつ、ひとつのことを世界水準で動かなければならない」という。

(2007年2月15日・杉山幹夫)


選手が表彰台に上るときの優しい笑顔と眼差しは周囲の空気を変える。世界ノルディック札幌大会のマスコット蝦夷鹿のノルッキーと腕を組んで、「世界初のドームでの開会式直後のスプリントを必ず見てください」と観客をわくわくさせる。

札幌冬季オリンピックの時に、日本人選手がメダルを独占した宮の森ジャンプ競技場で伊藤義郎さんの話をうかがった。
「70年も前の話ですね。父に連れられて、家族でよくスキーに出かけました。雪のある街に生まれて、自然にスキーが好きになったのでしょうね」。小学生の ころ札幌駅の近くの自宅から、市電に乗って、円山まで。リフトもなにもない、当時の荒井山スキー場で、休みの度に親子で滑ったという。「鍛えてやろうとい うのか、外に出た方がいいだろうというようなことだったとおもいます。父は会社では、有名な厳しい人でしたよ。私にも厳しかったかもしれませんね」。