円山動物園スノーフェスティバル実行委員会は円山動物園で2006年から毎年さっぽろ雪まつりの開催時期着に合わせてイベントを開催をし続けている。場所は第一レストハウス前の坂。

冬こそ円山動物園の魅力を知って欲しい

始まりは、円山動物園のホームページ編集会議で、冬の集客を増やす方針を考えていたメンバーから「冬こそ、雪の円山動物園で観て欲しい動物がいると、知らせたい」という本来の円山動物園の魅力の議論と、「集客のためのイベントを行いたい」という提案だった。イラク派兵のために自衛隊の真駒内駐屯地にあった雪まつり第二会場が2005年第56回さっぽろ雪まつりを最後に閉鎖されたという背景があったために「札幌の氷屋さんの美しい氷の滑り台をなくしたくない」「子供が遊ぶための氷の滑り台を一所懸命作るところ見せたい」などの要望が、周辺住民や市民から寄せられた。

子どもが喜ぶものを作りたい

様々な試みの中で、スタートから続けている「氷の滑り台」が切れ間なく製作、運営され続け、「冬の円山動物円のためのロゴ」が当時から現在まで使われ続けている。

 

 

 

 

 

円山動物園のお客様を増やしたいと考えていたら、夏も滑り台作っちゃいました。

 

主なメンバー

実行委員長 杉山幹夫

現場監督 星桂一

氷 遠藤慈慧

人材育成 本村雅幸

子どもとお母さん、野外教育 札幌まるやま自然学校 小杉生奈子

円山西町町内会

円山動物園

 

運営協力

札幌青年会議所OB有志

学術協力

和歌山大学災害科学教育研究センター

和歌山大学国際観光学研究センター

 

円山動物園は戦後すぐに地方自治は子供のためにという考えで生まれた

1945年9月2日に大日本帝国が降伏の調印をした。その後は米国軍が進駐する。敗戦と不況、何よりも食料の不足で、札幌でも人心は荒れ てたという。盗み等の犯罪が多くあり、治安が悪かったとう記述も残っている。そんな札幌で戦後直ぐに、どんな人たちが円山動物園を作ったのか。

「第四集北海道百年物語」(2004,STVラジオ編p63-64)にこの時期の貴重な記述がある。当時の札幌市長、高田富輿(たかだとみよ/1892-1976)の生い立ちや人格を記す一節に、1951(昭和26)年の円山動物園誕生の背景が書かれて いる。今はまだ、道路や交通機関が優先で無駄遣いは出来ないという市議会議員達の猛反対に対して、市長は「市民は長かった戦争に疲れ、今また戦後の食料事 情や貧しさに喘いでいる。そんな人たちに心安らげる場所を提供し、夢や希望を持って欲しいとう気持ちの何処が無駄な予算なのだ」と議員達に強く言ったあと 「なあみんな、親はいくら貧しくても、子供にはアメ玉一つでも与えてやりたいものだよ」と語りかけた。議員達は納得し、出来上がった円山動物園には北海道 中から人々が殺到し た という。
 

円山動物園スノーフェスティバル実行委員会は円山動物園の成り立ちに寄り添い、動物園を大切な市民の財産と考え、市民自ら大切に運営する貴重な体験をするというスタンスで活動している。円山動物園の職員が、市民の活動を保証するために多くの労力を割くことに、実行委員会は深く感謝している。