絶対に「できない」って言わない。まずやってみる。失敗したらやり直す

 

株式会社プランニング・ホッコー代表取締役社長 池崎豊さんのお話から

 

子供の頃
なんだか子分がたくさんいたんですよ。家にね。一斗缶ってわかります?そう、あのでっかい四角いカンカンに煎餅が買ってあったんですよね。 そうそう。南部煎餅みたいなの。それを家から持ち出してさ、配るからみんなついてきた。父は営林署の役人だったから、決まった給料で、当時はまとめ買い すると安いからとかね、いっぺんに買っておく家だったんです。
ビー玉、魚捕り、なんでも。川でも、道でもあそんだな。岩魚も釣りにいったよ。父がが釣りを好きで教わりました。川で泳ぐぞー!とかさ、その日の遊び方は僕がきめるんだよねえ。で頑張った子には南部煎餅。がはは。母は煎餅の減りの早さには気づいていたと思うんだけどね。


今は遠軽に合併した丸瀬布(まるせっぷ)の山、田園、川で日が暮れるまで「子分」を楽しませていた豊さん。彼が生まれたのは1950(昭和25)年。この年、戦争による中断を乗り越えて、札幌市と札幌観光協会の主催で再開第一回さっぽろ雪まつりが開催された。街がまた動き出す。人々の手で楽しみを生み出す。その一歩を踏み出した年だ。のちに彼のつくる会社が雪まつり運営の一翼を担うとになる。

 

 

 

失敗談になると一段と楽しそうに話す豊さん

韓国の仁川(インチョン)の孤児の施設と交流がありましてね、当時、韓国には大型テレビがなかったから、32位インチのを贈らせてもらったんですよ。仁川保育園。子供がよろこぶかなあっておもって、見に行ったらテレビがないんです。園長が売ってしまったですって。がっはっは。随分、こっちと向こうじゃ感覚が違う んだってことは学びましたね。


公共事業のキャラクターのぬいぐるみを用意する仕事があって、量が出るから、海外で作ったら利鞘が出るなとお もってね、やってみたんですよね。間に入った人が韓国人で、韓国のぬいぐるみ工場で作って輸入すると思ったら、中国の青島で作るっていうんですよね。嫌な予感したなあ。目がさ、頭のてっぺんにについていた。がっはっは。でも、納品先と期日はきまっているから、工藤さんに仕事の合間に目を外して付け直すって作業をやってもらってね。がっはっは。


ベ トナムの友達にさそわれてね、ゴカイで五階建てのビルが建つって。
向こうでゴカイを仕入れて、こっちで売るって。そうそう。釣り餌ね。アメリカ屋漁具に おさめるんだけど、また、韓国の人がやりたいというのだけど、ゴカイでも、イソメでないものが届いたり、よく動くから元気なのかと思ったら、ゴカイは死ぬ 前に元気よく動くんだって。荷物がちゃんと届かない。消えた。

制服をベトナムで作らせると、ボタンの穴があいてないとか、ポケット反対についていたり。

エスカルゴの養殖もやってみたけどだめ。がっはっは。

ほっかほか亭は「これは北海道でいける」とチェーン展開をやりたいと思ってやってみた。フランチャイズの店舗運営がどんなだか随分勉強になったし、えらい混んだんだけど、人が根付かなくて失敗しました。

携帯電話のレンタルショップを出してみた。娘の名前までつけてね。携帯電話が高かったころね。料金をいくらにしたもんだかがわからない。保証金を払ってレンタルするスタイルだったけど、すぐに見切りをつけました。

あと、魚を育てる瓶とか花を水なしで育てるジェルを売ってみたけどだめだったなあ。ベンチャー事業部とか作ってやったんだけど、ダメだった。がっはっは。

 

大きなモニターやプロジェクターはホッコーさん

1985(昭和60)年、レンタルプランニングの名前で操業。1987(昭和62)年に株式会社プランニング・ホッコーが設立される。この時期、青函トンネル本坑が貫通。NTT、JTが分割民営化で発足し、朝日麦酒や森永などが相次いでCIを導入、のちにアサヒビールに社名変更「アサヒスーパードライ」を発売。政府は民営化やアウトソーシングを重視、企業はそのイメージのブランド化に心血を注ぐ時代が到来していた。

札 幌でね「大きなモニターやプロジェクターはホッコー」って言っていただける時がありました。なんでも一番は難しいけど、何か一つでも一番に、あるいは「ホッコーさんにしかないから」みたいなのだがあると、いいんですよね。百貨店が競うようにモニターを借りてくださったんですよ。販売促進用のビデオを店頭で流すんです。五番館、KKR、 京王プラザと、だれでも名前を知っているところがお客さんになってくださったので、次の営業に繋がって行きました。札幌を見渡したときにね、うちの強みはなんだろうって考えて、映像機器で一番になろ うって決めたんです。三管式のプロジェクターってわかります?当時はすごく高かったんですけど、エベレスト登山のイベントをやるときに、北海道で最初のお客さんだって、何があってもいいように、ナショナルの技術者がふたり無償で来てくれてセッティングしてくれましたよ。300インチの映像が素晴らしかった。メーカーの技術者が札幌まで来てくれるのも嬉しかったなあ。

 

1987年に映像制作の事業をはじめました。

中野英俊現統括部長がいたから、映像部を立ち上げることができた。と豊さんはいう。

独立当初は平岸グランドビルの中にあったビデオワークという会社で机を一つ借りて、電話一本引いて、事務所といっていたんですよ。居酒屋山海のお客さんだった中野さんがビデオワークで働いていて、紹介していただいたんですよね。そのご縁がなかったら、会社もスタートできていないし、映像の分野に思い切って乗り出すことはなかったんです。社長の山本光敏さんには感謝の言葉ありません。

ICCインターナショナルの今は亡き木下社長にお世話になって、三階の部屋を借りて、映像部がスタートした当初、中野さんはほとんどそこに暮らしているという状態で、制作してくれてたんですよ。

「北海道を歩こう」って朝日新聞主催のイベントがあって、とてもいい企画なんですよ。これが、担当が異動する。前年をちゃんと踏襲しないといけない し、同じことを説明するので、映像でご覧いただこうとね、録画を残して報告させてもらったのが、イベントの記録って仕事になるんじゃないかって思ったんですよ。これはいいサービスになると。放送局で使う立派なカメラを買ってしまったんですよ。がはは。担当者たちが考え抜いてくれてね、函館とか小樽のカラオケの映像とか、結婚式とか大切なイベントの記録を仕事にすることができたんです。雪まつりのビデオなんか、 雪像できてから納品まで数時間だから、すごい大変だったけど、ビデオの販売が5年間もできたんです。放送局の参入があったりして市場が壊れてしまうまで、みんながんばりましたよ。大手さんが気付く前に勉強しました。キオスクやホテルに置いていいただいてね。定山渓、スキー場にも。1年目が本当によく売れた。キオスクは売れましたねえ。

2009年に、創和プロジェクトの現在社長室長をされている菅野義典さんから、突然お話を伺って、雪漕いで山登ったんですよ。「ここにチャペルが立つんだ。いい風景だろう」って。その後、立派な結婚式場になるんだけど、そのときすぐに結婚式の映像を撮らせてもらおうと決めたんですよ。思い切って機材を揃えました。今はとても大切なお仕事になっています。映画「ぶどうのなみだ」のロケ地になっていましたね。

大怪我をしない失敗は歓迎

数ある新規事業の失敗も、工藤さんにいわせると、怪我のうちにはいらないのかもと。その中から、看板の事業は大きく会社に貢献することになる。

 

社屋を買うことになったときね

北央信用組合でうちの担当をしていてくれた三木孝市さんが「これ、ホッコーさんにいいじゃないか」って物件を見つけてくださってね。同じく担当をしてくれていたことのある伊藤嘉朗さんが保証人になってくださったんですよ。今は、エル技術コンサルタントの常務取締役。1億3,000万円もの借金をね。

池崎豊社長の一大決心に栂なる社屋との出会いだ。

メインバンクも含めてね、なかなか貸してもらえない。諦めようかっていうときに、札幌信用金庫の積み立て三万円しかお付き合いのなかった安斎くんがね。「僕にやらせてください」ってすごい努力してくれて決まった。いざ、契約作業を進めるとき、普通預金 がないことに気がついて、慌て開口したんですよ。がっはっは。

安斎くんね、若かったんだけど、心臓発作で急死されてね。残念というか悔しかったです。うちの話をかためてくれたあともがんばっていて、評価が上がって、同期で一番出世だったときいていますと、豊社長は安西さんを思い出された。

 

総務部長の工藤さんは言う。前に借りていた社屋はね、街に近かったからすごく家賃が高くて、大家さんが家賃をあげるっていったとき、計算してみたの。この家賃払い続けるなら、社屋買えるのでわって。社屋がほしいってのはね、たとえば、面接しないで帰る求職者がいたり。笑えるでしょ。事務所見て、帰っちゃうの。友達に紹介できない、社屋を言えないって気持ち分からないでもなかった。自分の誇れる会社が欲しかった。だから、自然に計算しささって、社長にイケそうですって。私は信金の安西くんに社長、なんか仕事の話してくれるかも、行ってみたら」って促しただけよ。潤専務と同じ歳だったからしら。若くて、一所懸命で、丁寧に試算して支店長を説得して。彼が体を壊して亡くなったときお母様から伺ったんですよ。「自信がなくなったり、なにかあると、ホッコーさんの社屋を拝見しに行っていたようです。自分の仕事でいい会社にいい社屋をもってもらえた。札幌の経済を少し動かせたんだと元気が出たそうです」って。彼がいなくては、この社屋も手に入らなかったんです。うちは本当に担当してくださる銀行 の方に支えられた会社です。2001(平成13)年。念願の社屋をもったことで、信用がついたんですよ。建物の大きさで。担保になるからお金は借りやすくなるし、社員がね、募集してもちゃんと来る ようになるんです。ふふ。社屋がしっかりしていることは、働く人から信頼されるってことでもあるんですね。そして、お客様からも信頼される。おいでになったときに「わあ、こんな大きな会社なんですね」って。もちろん社員もがんばったのよ。売り上げは倍増しました。008(平成20)年からさっぽろオータムフェストの仕事を本当にたくさんいただいたんです。そりゃ、たくさん買い物しましたよ。 オータムフェストでは大きなおしゃれなテントや黒い粋なテントなど、今までと違う空気感をつくるのがうちの大事な仕事でしたから。投資は大変なものでした。でもね、これも会社の信用になって、社員が働きやすくなったんです。大きなものをやっているって。おかげさまで、今では誰もが知っているイベントとになったから。今は「食のイベントはプランニングホッコーさん」って言ってくださる。お客様がブランドにしてくださっています。精進しないとね。

 

 

豊さんはなんでもないようにいう

1991(平成3)年カッティングマシンを導入。看板製作部設置。

現在の看板の仕事のスタートはね、カッティングマシーンの導入なんです。ソフトを友人が作ったのを見て。一方で、営業で「ツールド北海道」のマークの看板をとってしまったり、成果と重なったので、すぐに取り組んだんですよ。職人がいなくても看板をつくることができる。業界が変化することがわかりました。

「誰つくるの?」と工藤さん。「あんただよ」と社長。

工藤さんの経理のコンピュータからはじめて、看板部が出来上がって行く。

 

 

トップセールスの営業マンから、居酒屋の店主に

高校出てサラリーマンになり、営業の仕事でトップセールスになったこともあるんだけど、大学を出てきた人たちより給料が少ない。出世しない。これは駄目だなあとおもって、独立を決意したんです。

居酒屋時代に、いろんな方に出会いましたね。あと、人間ヤル気になれば何でもできるってことを学びました。風呂屋の前で始めたから、結構人が入るかなと。半額 セールをすると、めったに来ない人も来るので、やめられなかったなあ。でもひどかったよ。料理なんてやったことないんだから。焼けていないホッケとかさ。 がったはっはっは。出すのさ。

お客様のなかにね、グランドホテルの調理人の方がいらして、料理をコツコツ教えてくれるんですよ。これが、ありがたいやら、頼もしいやら。料理もお客さんに教えてもらって。お客さんに店を見てもらったり。飯を食えない北大生に店番をさせて、遊びに出かけたりさ。ニラの卵とじ食いたいって、ニラもってきた学生可愛かったなあ。お付き合いが続いているうちに、学生さんもお勤めして偉くなっていったりね。いろいろ教えてくれて、お世話になった方から、さらにご紹介いただきながら、少しずつ軌道に乗って行きましたよ。伝票のつけおとしで、計算間違って安くなるから、お客さん喜んでたくさん来てくれた。がっははは。

山海野球部ってのつくったんです。お客さんと。山海は「さんかい」って読むんだけど、居酒屋の名前。朝野球のリーグで決勝までいったりさ。お客さんで野球やっている人いたら、全部チームにいれていまってさ。朝飯つくって持っていったなあ。うちのおっかあが、人数おおいからさあ、何回もご飯炊いて、おにぎり握ってくれてたなあ。

 

助っ人から本業へ

山海のお客さんでレンタル屋さんがいてね、ドン・リースアンドレンタルの佐藤正隆さん。札幌の最老舗です。人手がたりないので手伝いに行くとねと。これが、面白いぐらいやることいっぱいあるんですよ。勉強なったなあ。昼間レンタル屋、夜居酒屋。なんとかなるもんですね。なにせ、おもしろかったので、とうとう居酒屋をやめてレンタルショップを本気でやることになってしまった。レンタル業の基礎を学ばせてもらいました。この仕事で独立することになったのです。

 

お客様に支えられて独立

京王プラザホテル札幌の飯田修さんが「取引あるって書いていいから、そしたら他で仕事とりやすいだろ」とか、また可愛がってくださったり。そんなことで、会社が 動き出したんですよ。独立したことを「よかったなあ」って喜んでくださって。宴会のビンゴの機械から、プロジェクターまで、ホテルで使うものな んでも揃えましたね。

 

公務員の父と商人の娘の母

母方の祖母が、よく小遣いをくれました。初孫でかわいかったんじゃないかなあ。魚屋をやっていてね。前掛けしてるでしょ。ポケットをつけて、そこに釣り銭と売り上げが入っている。そこからちょろっと一握りくれたんだね。
中三で父が転勤、札弦 (さっつる)でした。修学旅行までばあちゃんちに残ってね、仲間で旅行に行ってから転校って優雅だよね。で、丸瀬布で受けた学力試験が、札弦で同じ試験だったりしてさ、いきなり成績がいいのなんのって、天才が転校してきたって大騒ぎになったんだけどね。日程がひっくり返ったらガタ落ちだっ。ガッハッハ。

高校はね、旭川日大。下宿屋でしょ。友達がごっそり来るんだよね。10月の生まれで、18歳になると同時に免許とってさ。冬休み、友達の親の車借りて、札幌まで遊びに出て、滝川でダンスクラブなんてのがあってね、潜り込んだりさ。警察が入ってきて、なんか怒られたり。友達に警察の息子もいたんだよなあ。

母はね、90才を過ぎて、今でも働いているんですよ。だから、息子がなかなか引退できない。僕も理事をやっているあいの里の施設で知的障害者の食事を作っているんです。なんか責任があるから健康な んですかね。真面目な顔して、いっつも自分の子供といっしょにいるみたいに怒りながら、みんなの面倒を見ている。従兄弟の森谷茂人が小樽で社会福祉法人を運営していたのだけど、札幌から小樽に通う子がいて、作りたいな あっておもってね。二人で札幌に生き活きワークセンターといいう小規模作業所を平成11年11月11日11:11に会所しました。全部いちからスタートっていいでしょ。今は社会福祉法人小樽高島福祉会に統合して続けています。ホッコーでも雇わせてもらったことがあってね、僕はね知的障害者に偏見もっていたんですよ。でも、いざ働いたら、ピタッとはまる仕事 だと、かえってすごい集中力で正確な仕事をしてくれたりね。本当に知らないってことはあるもんだな、偏見はよくないなと思いました。

きっと、父さんも営林署より、商売やりたかったんじゃないだろうか。母さんも商人の娘で、一斗缶でせんべい仕入れるような人だったし。多分、父さん が我慢したから、我慢しない息子になったのだとおもいます。

 

いあ、どんどんアイデア湧いて来るんだから困るんですよ

豊さんは、まだまだ、新しいビジネスを生み出したい。それが頭にも体にも刷り込まれているようだ。なんか若い人が喜ぶのことをしたいですね。90歳過ぎの母が現役で働いていますからね、何か仕事はつづけないと。がっはっは。

 

 



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